日本からカリフォルニアへ:先人の軌跡をたどる

令和8年7月31日

「日本からカリフォルニアへ:先人の軌跡をたどる」



2026年は、1776年7月4日に米国の独立宣言がなされてから250周年の年です。また、カリフォルニア州は2025年に、1850年9月9日に第31番目の州となってから175周年を迎えました。

このような節目に、米国建国以降の歴史、特に世界各地からの移住者により米国社会が構成されていく過程を振り返る中で、19世紀後半以降、我が国からはるばる太平洋を越えてカリフォルニアに渡った人々の軌跡をたどる資料をこちらのページで紹介します。

江戸末期、世界への門戸を開いた日本にとって、サンフランシスコは米国へのゲートウェイでした。1860年には咸臨丸が随行したことで有名な日本初の遣米使節団がサンフランシスコへ到着、1869年には日本から米本土への初の移民団が内陸のコロマ近郊へ入植し「若松コロニー」が形作られました。1870年には、サンフランシスコに日本初の在外公館が設置されました。

その後、20世紀初めにかけて日本からの移民が活発化し、カリフォルニアの各地に、彼らの多くが集住し、そのニーズに応えて物資やサービスを提供する店舗、地域社会の核となる寺院・教会、コミュニティ・センター、二世の日本語教育を行う学園といった施設の集まる日本町が形成されていきます。第二次世界大戦前までに州内各地に40以上もの日本町がありました。

このページでは、初めに戦前・戦後初期の在米日系人史に関する日本語文献の一部を紹介し、次に移民初期から第二次世界大戦頃までのカリフォルニア州中北部における日系人の歴史に関する資料を掲載します。この頃の日系一世、二世の暮らしや社会について理解を深める一助となれば幸いです。

サンフランシスコ市サウスパーク(サウス・オブ・マーケット)周辺の最初の日本町(1910年) サンフランシスコ市ストロ・バス(公共プール施設)の写真スタジオでポーズをとる家族(おそらく1920年代)
サンフランシスコ市サウスパーク(サウス・オブ・マーケット)周辺の最初の日本町(1910年) サンフランシスコ市ストロ・バス(公共プール施設)の写真スタジオでポーズをとる家族(おそらく1920年代)

写真: SAN FRANCISCO HISTORY CENTER, SAN FRANCISCO PUBLIC LIBRARY

【目次】

  1. 戦前・戦後初期の在米日系人史が総括的に記されている日本語文献
  2. カリフォルニア州中北部日系史跡マップ

【参考】

在サンフランシスコ日本国総領事館の歴史についてはこちらのページをご覧ください。
また、在ロサンゼルス日本国総領事館ホームページにも日系人社会に関するページ別ウィンドウで開くがありますので、併せてご参照ください。
在米日本国大使館ホームページでは、全米の日系団体を含む、日米関連団体のリンク集を掲載しています。

1 戦前・戦後初期の在米日系人史が総括的に記されている日本語文献

『在米日本人史』(1940年)及び『米國日系人百年史』(1961年)は、いずれも当時カリフォルニア州の日本にルーツを有する人々によって日本語で書かれた、日系移民史、日米関係史、全米各地の日系人社会概観等、以下の目次のとおり幅広い地域・分野をカバーし記録に留めた大部の書物です。以下にその概要をご紹介します。
 
サンフランシスコのオーシャン・ビーチで犬の散歩をするカズオ(1927年) 端午の節句の飾りの前に座る幼児(おそらく1920年代)
サンフランシスコのオーシャン・ビーチで犬の散歩をするカズオ(1927年) 端午の節句の飾りの前に座る幼児(おそらく1920年代)

写真: SAN FRANCISCO HISTORY CENTER, SAN FRANCISCO PUBLIC LIBRARY

 

(1)『在米日本人史』

1940年(昭和15年)、桑港(サンフランシスコ)の在米日本人会が発行。1293ページ。

【リンク】

『在米日本人史』

【目次・概要】
第一編 在米日本史総篇:江戸末期~1940年までの在米日本人の歴史を「黎明時代」「開拓時代」「発展時代」「全盛時代と排日」「在米日本人定着時代と第二世」の5章にわたって記述。
第ニ編 在米日本史各篇:移民初期から1930年代頃までの在米日本人の農業、商業、漁業、労働、宗教、教育、刊行物、運動競技、人口及び職業、公館及び団体、社会事業、戦役・事変・災害、儀礼行事、芸術・趣味・娯楽につき、14章にわたって記述。
第三編 在米邦人地区別概観:加州中北部・南部、ユタ州など山中部、コロラド州(山東部)、オレゴン州・ワシントン州等西北部、その他中西部、南部、東部の諸州につき5章にわたって記述。
第四編 米国の「排日史」:米国の「移民問題」・「移民入国制限問題」、「立法的排日」の沿革、外国人土地法などにつき8章にわたって記述。
第五編 日系市民(二世)概観:1900年頃から増加し始めた米国生まれの二世世代の直面した諸課題、1929年の日系市民協会(JACL)の誕生、帰米日系市民、日系諸団体、二世と産業につき5章にわたって記述。
第六編 日米国交史:16世紀以降の欧州から新世界への航海、太平洋と日米両国、ペリー提督来航から1940年までの日米関係史につき17章にわたって記述。
 

(2)『米國日系人百年史』

1961年(昭和36年)、羅府(ロサンゼルス)の新日米新聞社が日米修好百年記念として発行。1431ページ。

【リンク】

『米國日系人百年史』

【目次・概要】
第一編 米国日系人百年史総篇:日系人の移民史、産業、教育、文化、刊行物、宗教、スポーツ、「排日と日系人苦闘史」、「日系市民の成長と発展」、「日米戦争下の在米日系人」、一世「帰化権獲得」、「日米国交と在米日系人」につき15章にわたって記述。
第ニ編 各州日系人発展史地方篇 併録=在米日系人発展人士録:カリフォルニア州北部・中部・南部、オレゴン州、アイダホ州、ワシントン州他、中西部・東部・南部計47州の日系人について、27章にわたって記述。


サンフランシスコ日系ビジネスマン協会による北カリフォルニア日系野球トーナメント(1928年)
サンフランシスコ日系ビジネスマン協会による北カリフォルニア日系野球トーナメント(1928年)

写真: SAN FRANCISCO HISTORY CENTER, SAN FRANCISCO PUBLIC LIBRARY

2 カリフォルニア州中北部日系史跡マップ

カリフォルニア州中北部日系史跡マップ
 
(1) 咸臨丸入港100周年記念碑(サンフランシスコ市内リンカーン・パーク)・150周年記念プレート(サンフランシスコ市内ピア9)
 1860年、日米修好通商条約批准書交換のため江戸幕府が派遣した使節団に、勝麟太郞(海舟)を艦長とする咸臨丸が護衛艦として随行。同年2月10日に浦賀を出港した咸臨丸は、3月17日にサンフランシスコに入港(外務省HP別ウィンドウで開く)。
 100周年記念碑は、1957年にサンフランシスコ市の姉妹都市となった大阪市より寄贈されたもの。
(2) 若松コロニー(エルドラド郡プラサビル近郊)
 1869年、福島県会津若松からの移民団が入植した米本土初の日本人入植地。茶と絹を生産するための農場であったが、2年で失敗、解散となった。入植団に同行し、19歳の若さで亡くなった女性の墓をはじめ、当時の建物や写真が保存されている。
(3) エンジェル島移民局収容施設(サンフランシスコ湾内)
 1870年から1940年にかけて米国には2500万人以上の移民が到着し、とりわけ1900年から1914年までのピーク時期には年間平均90万人が到着(エンジェル島移民局収容施設基金HP別ウィンドウで開く)。サンフランシスコ湾内のエンジェル島にあるこの施設では、1910年から1940年にかけて約8万5千人の日本人移民が審査を受けた。
(4) コルマ日本人共同墓地(サンマテオ郡コルマ)
 サンフランシスコ市内にあった日本人の墓がコルマに移設され、1903年に日本人共同墓地として開設された。咸臨丸乗組員3名のお墓がある他、「ポテト王」牛島謹爾、「ライス王」国府田敬三郎、安孫子久太郎・日米新聞発行人、萩原真・ゴールデンゲートパーク日本庭園設計者他多くの日系人が眠る。「戦死者慰霊塔」等の記念碑もある。
 1901年設立の加州日本人慈恵会が維持管理を行っている。
(5) サンフランシスコ日本町(サンフランシスコ市内)
 初期の日本からの移住者の多くはサンフランシスコのチャイナタウンやマーケット通りの南側(サウス・オブ・マーケット(SOMA)地区)に集住していた。1873年には、在サンフランシスコ領事館はカリフォルニアに「日本人68名、女子8名、子供4名」がいると報告している(『米國日系人百年史』p.6)。1900年には、カリフォルニアの在米日本人数は10,151名(全米では22,325名)との記録がある(『米國日系人百人史』p.12)。
 1906年の大地震や火事でサンフランシスコ中心部は大きな被害を受け、日本人の多くはより西側のウェスタン・アディション/フィルモア地区へ移転、今日の日本町の基礎を築いた。その移転を起点として2026年はサンフランシスコ日本町120周年。
(6) サンノゼ日本町(サンノゼ市内)
 シリコンバレーに位置するサンノゼ市周辺のサンタクララ平原は農業地帯として知られ、サンノゼ地域における日本人農業労働者の数は、1891年には約100名であったものが年々急増し、1894年には1000名を超え、翌95年には2,300名に達した(『米國日系人百年史』p.33)。当時のチャイナタウン近隣に日本人が集住するようになり、1900年にはサンノゼ日本町が形成された。1911年にはサンノゼの日本人は4000名近くに達した。耕作物はイチゴ等で、1910年頃より野菜耕作者が増加した(『米国日系人百年史』p.420)。
(7) マンザナー元強制収容所(インヨー郡オーエンズバレー)
 第二次世界大戦時、西海岸の日系人約12万人が強制収容された、戦時転住局(Wartime Relocation Authority: WRA)の管理する全米10か所の収容所の1つ。
 これらの収容所が開設されるまでの間は、西海岸諸州及びアリゾナ州の各地17か所に設けられ戦時市民管理局(Wartime Civil Control Administration: WCCA)の管理する臨時の集合センター(Assembly Center)に収容された。この他、連邦政府の司法省や米陸軍の管轄下の拘留所もあった。
 マンザナーでは1942年3月から収容が始まり、1945年11月に閉鎖され、その間最大9,730人が収容されていた(NJAHSウェブサイト)。
(8) トゥーリーレイク元強制収容所(モドック郡ニューウェル近郊)
 WRA収容所の1つとして1942年5月に開設されたが、1943年夏には、連邦政府により米国に不忠とされた人々の隔離センターへと変更された。ピーク時には18,700人が収容されていた(WRAの10の収容所のうち最大)(トゥーリーレイク委員会ウェブサイト別ウィンドウで開く)。
 日本国籍を有する移民一世と米国籍を放棄した日系米国人の国外退去の手続きを処理するため、トゥーリーレイク収容所が閉鎖されたのは収容所のうちで最も遅い1946年3月であった。
(9) 米陸軍第442連隊戦闘団展示(米海軍退役空母ホーネット艦内)(アラメダ市)
 博物館となっている米海軍退役空母ホーネットの艦内に、日系人で構成された米陸軍第442連隊戦闘団、日本語能力を有する多くの日系二世が所属した米陸軍情報部、及び日系人強制収容所に関する展示室が設けられている。二世退役軍人フレンズ&ファミリー協会により整備され、2006年8月に開館。
(10) 米陸軍情報部(MIS)歴史学習センター(サンフランシスコ市内プレシディオ)
 MIS言語学校として1941年11月に開校(真珠湾攻撃の1か月前)、秘密裏に日本語の授業が行われた建物が博物館となっている。MISは戦争終結までに6千人以上の語学兵を育成、その多くが日系二世であり、翻訳、諜報、捕虜の尋問等で活躍した(NJAHSウェブサイト)。