日本からカリフォルニアへ:先人の軌跡をたどる

令和8年8月31日

「日本からカリフォルニアへ:先人の軌跡をたどる」



2026年は、1776年7月4日に米国の独立宣言がなされてから250周年の年です。また、カリフォルニア州は2025年に、1850年9月9日に第31番目の州となってから175周年を迎えました。

このような節目に、米国建国以降の歴史、特に世界各地からの移住者により米国社会が構成されていく過程を振り返る中で、19世紀後半以降、我が国からはるばる太平洋を越えてカリフォルニアに渡った人々の軌跡をたどる資料をこちらのページで紹介します。

江戸末期、世界への門戸を開いた日本にとって、サンフランシスコは米国へのゲートウェイでした。1860年には咸臨丸が随行したことで有名な日本初の遣米使節団がサンフランシスコへ到着、1869年には日本から米本土への初の移民団が内陸のコロマ近郊へ入植し「若松コロニー」が形作られました。1870年には、サンフランシスコに日本初の在外公館が設置されました。

その後、20世紀初めにかけて日本からの移民が活発化し、カリフォルニアの各地に、彼らの多くが集住し、そのニーズに応えて物資やサービスを提供する店舗、地域社会の核となる寺院・教会、コミュニティ・センター、二世の日本語教育を行う学園といった施設の集まる日本町が形成されていきます。第二次世界大戦前までに州内各地に40以上もの日本町がありました。

このページでは、初めに戦前・戦後初期の在米日系人史に関する日本語文献の一部を紹介し、次に移民初期から第二次世界大戦頃までのカリフォルニア州中北部における日系人の歴史に関する資料を掲載します。この頃の日系一世、二世の暮らしや社会について理解を深める一助となれば幸いです。

サンフランシスコ市サウスパーク(サウス・オブ・マーケット)周辺の最初の日本町(1910年) サンフランシスコ市ストロ・バス(公共プール施設)の写真スタジオでポーズをとる家族(おそらく1920年代)
サンフランシスコ市サウスパーク(サウス・オブ・マーケット)周辺の最初の日本町(1910年) サンフランシスコ市ストロ・バス(公共プール施設)の写真スタジオでポーズをとる家族(おそらく1920年代)

写真: SAN FRANCISCO HISTORY CENTER, SAN FRANCISCO PUBLIC LIBRARY

【目次】

  1. 戦前・戦後初期の在米日系人史が総括的に記されている日本語文献
  2. カリフォルニア州中北部日系史跡マップ
  3. カリフォルニア州中北部の日本町

【参考】

在サンフランシスコ日本国総領事館の歴史についてはこちらのページをご覧ください。
また、在ロサンゼルス日本国総領事館ホームページにも日系人社会に関するページ別ウィンドウで開くがありますので、併せてご参照ください。
在米日本国大使館ホームページでは、全米の日系団体を含む、日米関連団体のリンク集を掲載しています。

1 戦前・戦後初期の在米日系人史が総括的に記されている日本語文献

『在米日本人史』(1940年)及び『米國日系人百年史』(1961年)は、いずれも当時カリフォルニア州の日本にルーツを有する人々によって日本語で書かれた、日系移民史、日米関係史、全米各地の日系人社会概観等、以下の目次のとおり幅広い地域・分野をカバーし記録に留めた大部の書物です。以下にその概要をご紹介します。
 
サンフランシスコのオーシャン・ビーチで犬の散歩をするカズオ(1927年) 端午の節句の飾りの前に座る幼児(おそらく1920年代)
サンフランシスコのオーシャン・ビーチで犬の散歩をするカズオ(1927年) 端午の節句の飾りの前に座る幼児(おそらく1920年代)

写真: SAN FRANCISCO HISTORY CENTER, SAN FRANCISCO PUBLIC LIBRARY

 

(1)『在米日本人史』

1940年(昭和15年)、桑港(サンフランシスコ)の在米日本人会が発行。1293ページ。

【リンク】

『在米日本人史』

【目次・概要】
第一編 在米日本史総篇:江戸末期~1940年までの在米日本人の歴史を「黎明時代」「開拓時代」「発展時代」「全盛時代と排日」「在米日本人定着時代と第二世」の5章にわたって記述。
第ニ編 在米日本史各篇:移民初期から1930年代頃までの在米日本人の農業、商業、漁業、労働、宗教、教育、刊行物、運動競技、人口及び職業、公館及び団体、社会事業、戦役・事変・災害、儀礼行事、芸術・趣味・娯楽につき、14章にわたって記述。
第三編 在米邦人地区別概観:加州中北部・南部、ユタ州など山中部、コロラド州(山東部)、オレゴン州・ワシントン州等西北部、その他中西部、南部、東部の諸州につき5章にわたって記述。
第四編 米国の「排日史」:米国の「移民問題」・「移民入国制限問題」、「立法的排日」の沿革、外国人土地法などにつき8章にわたって記述。
第五編 日系市民(二世)概観:1900年頃から増加し始めた米国生まれの二世世代の直面した諸課題、1929年の日系市民協会(JACL)の誕生、帰米日系市民、日系諸団体、二世と産業につき5章にわたって記述。
第六編 日米国交史:16世紀以降の欧州から新世界への航海、太平洋と日米両国、ペリー提督来航から1940年までの日米関係史につき17章にわたって記述。
 

(2)『米國日系人百年史』

1961年(昭和36年)、羅府(ロサンゼルス)の新日米新聞社が日米修好百年記念として発行。1431ページ。

【リンク】

『米國日系人百年史』

【目次・概要】
第一編 米国日系人百年史総篇:日系人の移民史、産業、教育、文化、刊行物、宗教、スポーツ、「排日と日系人苦闘史」、「日系市民の成長と発展」、「日米戦争下の在米日系人」、一世「帰化権獲得」、「日米国交と在米日系人」につき15章にわたって記述。
第ニ編 各州日系人発展史地方篇 併録=在米日系人発展人士録:カリフォルニア州北部・中部・南部、オレゴン州、アイダホ州、ワシントン州他、中西部・東部・南部計47州の日系人について、27章にわたって記述。


サンフランシスコ日系ビジネスマン協会による北カリフォルニア日系野球トーナメント(1928年)
サンフランシスコ日系ビジネスマン協会による北カリフォルニア日系野球トーナメント(1928年)

写真: SAN FRANCISCO HISTORY CENTER, SAN FRANCISCO PUBLIC LIBRARY

2 カリフォルニア州中北部日系史跡マップ

カリフォルニア州中北部日系史跡マップ
 
(1) 咸臨丸入港100周年記念碑(サンフランシスコ市内リンカーン・パーク)・150周年記念プレート(サンフランシスコ市内ピア9)
 1860年、日米修好通商条約批准書交換のため江戸幕府が派遣した使節団に、勝麟太郞(海舟)を艦長とする咸臨丸が護衛艦として随行。同年2月10日に浦賀を出港した咸臨丸は、3月17日にサンフランシスコに入港(外務省HP別ウィンドウで開く)。
 100周年記念碑は、1957年にサンフランシスコ市の姉妹都市となった大阪市より寄贈されたもの。
(2) 若松コロニー(エルドラド郡プラサビル近郊)
 1869年、福島県会津若松からの移民団が入植した米本土初の日本人入植地。茶と絹を生産するための農場であったが、2年で失敗、解散となった。入植団に同行し、19歳の若さで亡くなった女性の墓をはじめ、当時の建物や写真が保存されている。
(3) エンジェル島移民局収容施設(サンフランシスコ湾内)
 1870年から1940年にかけて米国には2500万人以上の移民が到着し、とりわけ1900年から1914年までのピーク時期には年間平均90万人が到着(エンジェル島移民局収容施設基金HP別ウィンドウで開く)。サンフランシスコ湾内のエンジェル島にあるこの施設では、1910年から1940年にかけて約8万5千人の日本人移民が審査を受けた。
(4) コルマ日本人共同墓地(サンマテオ郡コルマ)
 サンフランシスコ市内にあった日本人の墓がコルマに移設され、1903年に日本人共同墓地として開設された。咸臨丸乗組員3名のお墓がある他、「ポテト王」牛島謹爾、「ライス王」国府田敬三郎、安孫子久太郎・日米新聞発行人、萩原真・ゴールデンゲートパーク日本庭園設計者他多くの日系人が眠る。「戦死者慰霊塔」等の記念碑もある。
 1901年設立の加州日本人慈恵会が維持管理を行っている。
(5) サンフランシスコ日本町(サンフランシスコ市内)
 初期の日本からの移住者の多くはサンフランシスコのチャイナタウンやマーケット通りの南側(サウス・オブ・マーケット(SOMA)地区)に集住していた。1873年には、在サンフランシスコ領事館はカリフォルニアに「日本人68名、女子8名、子供4名」がいると報告している(『米國日系人百年史』p.6)。1900年には、カリフォルニアの在米日本人数は10,151名(全米では22,325名)との記録がある(『米國日系人百人史』p.12)。
 1906年の大地震や火事でサンフランシスコ中心部は大きな被害を受け、日本人の多くはより西側のウェスタン・アディション/フィルモア地区へ移転、今日の日本町の基礎を築いた。その移転を起点として2026年はサンフランシスコ日本町120周年。
(6) サンノゼ日本町(サンノゼ市内)
 シリコンバレーに位置するサンノゼ市周辺のサンタクララ平原は農業地帯として知られ、サンノゼ地域における日本人農業労働者の数は、1891年には約100名であったものが年々急増し、1894年には1000名を超え、翌95年には2,300名に達した(『米國日系人百年史』p.33)。当時のチャイナタウン近隣に日本人が集住するようになり、1900年にはサンノゼ日本町が形成された。1911年にはサンノゼの日本人は4000名近くに達した。耕作物はイチゴ等で、1910年頃より野菜耕作者が増加した(『米国日系人百年史』p.420)。
(7) マンザナー元強制収容所(インヨー郡オーエンズバレー)
 第二次世界大戦時、西海岸の日系人約12万人が強制収容された、戦時転住局(Wartime Relocation Authority: WRA)の管理する全米10か所の収容所の1つ。
 これらの収容所が開設されるまでの間は、西海岸諸州及びアリゾナ州の各地17か所に設けられ戦時市民管理局(Wartime Civil Control Administration: WCCA)の管理する臨時の集合センター(Assembly Center)に収容された。この他、連邦政府の司法省や米陸軍の管轄下の拘留所もあった。
 マンザナーでは1942年3月から収容が始まり、1945年11月に閉鎖され、その間最大9,730人が収容されていた(NJAHSウェブサイト)。
(8) トゥーリーレイク元強制収容所(モドック郡ニューウェル近郊)
 WRA収容所の1つとして1942年5月に開設されたが、1943年夏には、連邦政府により米国に不忠とされた人々の隔離センターへと変更された。ピーク時には18,700人が収容されていた(WRAの10の収容所のうち最大)(トゥーリーレイク委員会ウェブサイト別ウィンドウで開く)。
 日本国籍を有する移民一世と米国籍を放棄した日系米国人の国外退去の手続きを処理するため、トゥーリーレイク収容所が閉鎖されたのは収容所のうちで最も遅い1946年3月であった。
(9) 米陸軍第442連隊戦闘団展示(米海軍退役空母ホーネット艦内)(アラメダ市)
 博物館となっている米海軍退役空母ホーネットの艦内に、日系人で構成された米陸軍第442連隊戦闘団、日本語能力を有する多くの日系二世が所属した米陸軍情報部、及び日系人強制収容所に関する展示室が設けられている。二世退役軍人フレンズ&ファミリー協会により整備され、2006年8月に開館。
(10) 米陸軍情報部(MIS)歴史学習センター(サンフランシスコ市内プレシディオ)
 MIS言語学校として1941年11月に開校(真珠湾攻撃の1か月前)、秘密裏に日本語の授業が行われた建物が博物館となっている。MISは戦争終結までに6千人以上の語学兵を育成、その多くが日系二世であり、翻訳、諜報、捕虜の尋問等で活躍した(NJAHSウェブサイト)。

3 カリフォルニア州中北部の日本町


アメリカに現存する日本町は、サンフランシスコ、サンノゼ、ロサンゼルスの3か所と言われています。しかし第二次世界大戦前のカリフォルニア州各地には、日系一世や二世によって築かれた日本町が数多く存在しました。2006年~2007年に、戦前州内に点在していた多くの日本町を記録に留める州全体で初めての保存プロジェクト(Preserving California‘s Japantown: PCJ)が行われ、50か所に上る調査が行われ結果が発表されました。

この項では、サンフランシスコとサンノゼの日本町に関するより詳しいリンクを掲載するとともに、PCJプロジェクトの調査で取り上げられた北部中部カリフォルニアに存在した日本町の1つ1つについて記述します。
カリフォルニア州中北部の歴史的な日本町
カリフォルニアの日本町保存プロジェクトの調査で取り上げられた州内各地の「日本町」所在地
出典:Preserving California’s Japantowns (2008)別ウィンドウで開く
Preserving California's Japantowns, sponsored by the California Japanese American Community Leadership Council, selected 50 pre-war Japantowns for the research study.


(1)サンフランシスコ
サンフランシスコ日本町周辺を彩るバナー サンフランシスコ日本町歴史ウォーク案内板
サンフランシスコ日本町周辺を彩るバナー サンフランシスコ日本町歴史ウォーク案内板


(2)サンノゼ
サンノゼ日系アメリカ人博物館 一世記念館
サンノゼ日系アメリカ人博物館 一世記念館


(3)サクラメント
サクラメント日本町記念壁画
サクラメント日本町記念壁画

カリフォルニア州都サクラメントの日本町は、その形成された当時の1895年には日本人の経営する旅館3、商店2、医師1、料理業1であったが、その後移住者が増加し、1910年前後には日本人の居住者が千人、定住の戸数200戸、さらに1940年には市内の商家数414戸、住宅750戸となり、サンフランシスコ、ロサンゼルスに次ぐ賑わいがあった(『米國日系人百年史』p.428)。

サクラメントの日本町には1940年には3400人以上が居住し、ホテル79、コミュニティ団体44、レストラン31、市場26、床屋15、ランドリー14、その他255以上もの店舗等が立ち並ぶ賑わいがあった(PCJサーベイ「サクラメント」)。
(4)フロリン
サクラメントから南東12kmのフロリンには1892年頃より日本人が入植し人数が増え始めた。イチゴやブドウの生産が盛んで、農産物の流通業者や小売商店、産院、6つの学園もあった。戦前の人口は1650名、総戸数は290戸であった(年代不明)(『米國日系人百年史』pp.429-430)。フロリンはカリフォルニアにおける日系農業入植地の中でも最も大規模なものの一つとなった(PCJコミュニティ・プロフィール「フロリン」)。
(5)メリスビル
メリスビル仏教会 日本町があったエリアに現存する建物(メリスビル)
メリスビル仏教会 日本町があったエリアに現存する建物(メリスビル)

サクラメントの北63kmに位置するメリスビルはサター郡都であり、その日本町はチャイナタウンとユバ川に沿って隣接し、40ほどの小規模店舗等が軒を並べ、日本人農場労働者等の集まる中心地となっていた(PCJコミュニティ・プロフィール「メリスビル」)。メリスビルの戦前の日本人人口は1254名、戸数は195戸であった(『米國日系人百年史』p.431)。  
(6)ウォルナット・グローブ
日系歴史地区(ウォルナット・グローブ) 日系歴史地区(ウォルナット・グローブ)

日系歴史地区(ウォルナット・グローブ)


サクラメントから南へ38kmの、サクラメント川下流に位置するウォルナット・グローブ周辺の地域は「河下」(かわしも)と呼ばれ、アスパラガスの産地として知られるデルタ地域であり、この地方に日本人が初めて入ったのは1889年であった(『米國日系人百年史』pp.432-434)。肥沃な土壌で農業が盛んであり、1930年代までには100以上の日系農家が河下地域で農業に従事、ウォルナット・グローブの日本町も物資調達や娯楽施設等で賑わいを見せた(PCJコミュニティ・プロフィール「ウォルナット・グローブ」)。

(7)アイルトン
アジア系米国人ヘリテージ公園隣接の往時を偲ばせる建物(アイルトン) アイルトンの町並
アジア系米国人ヘリテージ公園隣接の往時を偲ばせる建物(アイルトン) アイルトンの町並

河下地方に位置するアイルトンに最初に日本人が入ったのは1892年であり、その後、日本人農家の増加が見られた。1939年の調査によると、日本人の戸数68軒、人口441名であった(『米國日系人百年史』pp.434-435)。
(8)ストックトン
ニッポン・ホスピタル(ストックトン)
ニッポン・ホスピタル(ストックトン)

カリフォルニアの中央平原サンホアキン郡都のストックトン付近には、1891年に後に「ポテト・キング」と呼ばれた牛島謹爾がじゃがいもを耕作し、河下地方を開墾してじゃがいも大農園を形成するに至った。その他多くの日本人が玉ねぎ等野菜類の耕作に従事した。1935年の調査によると「邦人農耕者261名で、その家族は595名、定住の農園労働者数は223名」、1940年頃のストックトン市内の邦人の諸営業は188軒に上っていた(『米國日系人百年史』pp.436-438)。
(9)ローダイ
ストックトンから北へ20kmのローダイはブドウの産地であり、日本人が初めて移住したのは1888年のことであった。1940年の調査によれば、戸数150戸、人口800名の日本人が居住していた(『米國日系人百年史』pp.438-439)。ローダイの日本町は、1910年までにはユニオン・パシフィック鉄道の線路や、この地域の果物や野菜を国内へ発送する施設に沿って発展し、日系の旅館、商店、食堂、ビリヤード場、浴場などがあった(PCJコミュニティ・プロフィール「ローダイ」」。
(10)ヴァカビル/ウィンターズ
先人の眠る墓地(ヴァカビル) ウィンターズ・ジャパンタウン記念碑
先人の眠る墓地(ヴァカビル) ウィンターズ・ジャパンタウン記念碑

サクラメントの南西50kmに位置するヴァカビルは近隣のウィンターズ等とともに果物の産地として知られ、1887年頃より日本人が入り始めた。カリフォルニアで日本人が最初に入った農園はヴァカビル地方とされている(『米國日系人百年史』pp.436-438)。1906年までには、ヴァカビルのチャイナタウンに隣接して日系の商業地区が興り、ヴァカ平原の日系移民のニーズに応えた。ヴァカビルは、数十年にわたってソラノ郡の日系移民社会の中心として栄えた(PCJコミュニティ・プロフィール「ヴァカビル」)。

(11)ペタルマ/セバストポル
園満寺(セバストポル)
園満寺(セバストポル)
 
サンフランシスコから北へ54km離れたソノマ郡ペタルマ及び近隣のセバストポルの地域には、日本からの移民が1880年代から入り始め、肥沃な土地を耕作し、リンゴやブドウを育て、養鶏に携わった。この地域には戦前750名以上の日系人が住んでいた。

1875年にソノマ郡に移住した元薩摩藩士長澤鼎は、後にワイン醸造で成功し「カリフォルニアのワイン王」と称された。

セバストポルにある園満寺は、1933年シカゴ万国博覧会で日本館として使われた、寺院を模した建物がソノマ郡仏教会に寄贈されたものであり、1934年にセバストポルに建立された(PCJコミュニティ・プロフィール「ペタルマとセバストポル」)。

(12)オークランド/バークレー/アラメダ
サンフランシスコから湾を挟んで対岸にあるオークランド、バークレー、アラメダは湾東地方と呼ばれ、大陸に接続した工業地帯として発展していた。この地域の日本人は、主に農業、商業、洗濯業、花園業等に従事していた。特に花園業は非常に発展し、日本人経営花園業者は大規模な温室等を有し利益を上げていた(『米國日系人百年史』p.414)。

1940年頃オークランド市内にあった日本人の団体商店数は、県人会同郷友会11、学園教授所8、新聞社3、医院4、洋食店料理屋12、和洋食料品店10、グロッサリー菜果店68、湯屋5、旅館貸間8、洋服洗染所57、切花店25、花園業25、靴工店22等(『米國日系人百年史』p.415)。第二次世界大戦開戦時のオークランドの日系人の人口は1800人近く、カリフォルニアで最も大きい日系コミュニティの一つとなっており、その規模はロサンゼルス、サンフランシスコ、サンノゼ、サクラメントに次ぐものであった(PCJコミュニティ・プロフィール「オークランド」)。

バークレーはカリフォルニア大学バークレー校の所在地である他、サンフランシスコやオークランドに通勤する住民が多く、戦前の日本人の職業は、庭園業、花園業、家庭働きを主としていた。バークレー地方に最初に入った日本人は、靴工業者であったとされており、1897年には、日本人が花園業を立ち上げた。バークレーの日本人は1940年度には戸数371戸、人口1461名となっていた(『米國日系人百年史』p.415)。

アラメダは主にサンフランシスコ方面の通勤者が多い住宅都市であり、戦前の日本人は主に庭園業、家庭労働に従事していた。1940年当時の日本人数は611名で、既に約30人の日系三世が誕生していた。1940年当時、アラメダにおける日本人の団体商店数は、団体及び教会学園13、医院産院2、商店5、切花店花園8、洋服洗染靴工店7等であった(『米國日系人百年史』p.416)。

(13)サンマテオ/マウンテンビュー
カリフォルニア州サンマテオの友人を訪ねる家族(おそらく1920年代
カリフォルニア州サンマテオの友人を訪ねる家族(おそらく1920年代)
写真: SAN FRANCISCO HISTORY CENTER, SAN FRANCISCO PUBLIC LIBRARY

サンフランシスコの南30kmに位置するサンマテオ郡サンマテオは、富裕層の住宅地として知られ、1900年頃から入ってきた日本人は、家庭労働、洗濯業、花卉業、庭師業等に携わった。1940年のサンマテオの日本人は戸数200戸を越し、人口は850名、その55%は日系二世であった(『米國日系人百年史』p.418)。

マウンテンビューはサンマテオの南東に位置し、1895年頃より徐々に日本人が入り農園労働を始めた。1940年にはマウンテンビューの日本人は戸数66戸、人口874人であった(『米國日系人百年史』p.420)。
 
(14)ワトソンビル
カリフォルニア州中部モントレー湾の近くに位置するサンタクルズ郡ワトソンビルに日本人が最初に足跡を印したのは1893年であった。農園開拓が進み、リンゴ、イチゴ、砂糖大根等が耕作され、ワトソンビル周辺の10マイル(16km)四方の小平原にピーク時には3000人以上の日本人がいた。日本人が主として栽培したのはイチゴ類であった(『米國日系人百年史』pp.421-422)。ワトソンビルの日本町には1940年までには日系住民や移動農場労働者のための店舗等が並び、日本語学校、コミュニティ・センター、柔道場・剣道場・野球場等があった(PCJコミュニティ・プロフィール「ワトソンビル」)。

(15)モントレー
モントレー湾を臨むモントレーには日本人が1898年に既に入り野菜耕作を始めていたが、ここで日本人に漁業創始の道も拓かれた。1920年までにはモントレーのダウンタウンに日系のコミュニティが形成され、1930年代後半までには日系人の所有する水産会社8社や缶詰工場が稼働していた( PCJコミュニティ・プロフィール「モントレー」)。

1940年頃の日本人の人口は550人、戸数は150戸で、農業よりも漁業を主とする土地柄のため漁期には人口の増加があった((『米國日系人百年史』pp.424-425)。

(16)サリナス
モントレー内陸部の平原に位置するサリナスは、モントレー郡都である。この地域に日本人が入ったのは1896、97年頃と記録されている。初期の日本人農家は主に砂糖大根を耕作していたが、1920年頃よりレタスが主な作物となり、これが成功してこの地方の繁栄に貢献した。1940年度の日本人戸数は280戸、人口1700人で、その過半は二世であった(『米國日系人百年史』pp.423-424)。サリナスの日本町にはホテル3、下宿屋2、ビリヤード場4、レストラン7、美容院4、魚市場2の他に30もの店舗等があった(PCJサーベイ「サリナス」)。

(17)リビングストン
ヤマト・コロニー小学校(リビングストン)
ヤマト・コロニー小学校(リビングストン)

ストックトンから南東に81km離れたリビングストンには、日本人の殖民地「大和コロニー」があった。このコロニーは、1906年、日米新聞創刊者の安孫子久太郎を中心とした日米勧業社の移民たちが建設した日本人建設による最初の植民地である(国会図書館「加州大和殖民地」)。1940年までには75家族がブドウやモモを耕作し、共同組合を作って果物の梱包や発送を監督していた(PCJサーベイ「リビングストン」)。

(18)フレズノ
今も営業している店舗を擁する日本町があったエリア(フレズノ)
今も営業している店舗を擁する日本町があったエリア(フレズノ)

フレズノ郡の中心フレズノ市に最初に日本人が入ったのは1880年頃であり、ブドウの栽培に従事した。以後、フレズノ地方には、サクラメント方面あるいは沿岸地方より入る日本人が漸増し、ブドウの生産は活況を呈した。1929年にはフレズノ郡の日本人人口は4372人、総戸数940戸であった。

1939年度のフレズノ市日本人社会には、団体34、新聞社及び支社6、医院産院9、法律通訳公証事務4、食料雑貨野菜果物店13、旅館8、学園寄宿舎4、裁縫学校5、種苗養鶏肥料店5、魚肉豆腐店6、洋食珈琲飲食店19、湯屋床屋美容院10等を有し、近郊の日本人も相手に「相当の繁盛を極めて居た」(『米國日系人百年史』pp.860-861)。 フレズノの日本町はチャイナタウンに隣接し、フレズノ近郊のみならず、キングス郡、トゥラーリ郡から訪れる日本人で賑わった(PCJコミュニティ・プロフィール「フレズノ」)。

(19)ファウラー
フレズノの南東17kmに位置するフレズノ郡ファウラーに、日本人が入るようになったのは1895年頃で、戦前は野菜やイチゴの耕作者が数を増していた。フレズノ郡各地に会員(株主)を有する「日本人投資会社」は中部カリフォルニア唯一の信用金融機関で、創立1920年、同会社の農産業界への融通は全額の8割以上で産業発達に大きく貢献していた(『米國日系人百年史』p.872)。

(20)バイセリア
フレズノから南東へ63kmのバイセリアはトゥラーリ郡都である。1940年頃のバイセリア市内在住日本人は30余戸百数十名であったが、日本人農家が郊外に約70戸三百余名が住んでいた。日本人農家はブドウ、野菜が主で、柑橘も栽培していた(『米國日系人百年史』p.906)。

バイセリアの日本町には、移動農場労働者の増える季節にはホテル6、レストラン7、劇場1、各種店舗が軒を並べた(PCJサーベイ「バイセリア」)。

(21)ベイカーズフィールド
カーン郡都ベイカーズフィールドはフレズノから170km南に位置し、州中央に広がるサンホアキン平原の南端にある。1941年頃カーン郡には日本人71戸、総計333人(うち二世202人)が在住し、ブドウ、サツマイモ等が主要耕作物であった。ベーカーズフィールド市内には、日系の新聞社3、各種団体に加え、商店6、食品店4、旅館2が営業していた(『米國日系人百年史』pp.914-915)。